ドーナツに穴

ドーナツの穴

twnovelを元に書いた小文を折本にしたり、EPUBにしたりします。うろ覚えな話もします。

「金星」

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【第2回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」

参加作品

▼お題「星」で書きました。
 タイトルは「きんぼし」です。1440字

金星

 光津学(こうず まなぶ)は、ブログを始めて半年ほどになる。切欠は主治医の助言だった。単調な入院生活の中で思考能力が衰えないよう半ば命じられている。しかし、彼が端末を操作し、開いたのは、ある飲食店のホームページだった。
 並んでいるメニューの数字は、すべて四桁を下らない。廉価店の基準からすれば、暴挙とさえ思える価格設定だ。店舗の所在は、富裕層の住宅が多い地域に位置している。
 ホームページには、『店主のひとりごと』というブログがリンクされていた。店主の女性による日常のあれこれや新作メニューの詳細などの記事が並んでいる。彼女の趣味か、それとも客の好感度を狙ったものか。ブログのデザインには、星のモチーフが多用されていた。星座は季節に合わせ、差し替わっている。
 夜空を飾る星々の間に鎮座するメニューのいくつかに但し書きがあった。
『このメニューは、光津学様の「レシピ一覧」のレシピを参考にしています』
 アイデア著作権はない。著作権は、表現の部分を所轄する権利だ。ブログに掲載されているレシピで料理を作り、販売し、利益を得たところで、このような記載をする必要はない。彼女は無知なのか、それとも、トラブルを避けたいのか。おそらく後者だろう。なぜなら学の作ったレシピは現代風の簡便な代物ではなかった。女性が家事に人生を囚われていた時代の気の遠くなるような手順と緻密な調理技術を要求される献立ばかりなのである。レシピの末尾に記載されている参考文献は、調理過程を表す文章の優に三倍はあった。
 学のレシピは、料理の設計図というより、その成り立ちに関わる歴史的な考察である。読者に考慮していない内容であるから偏屈な人物と目されても仕方なかった。但し書きによる対応は彼女なりの苦肉の策に違いない。直接、断りを入れようと考えたかもしれないが、学は連絡先をブログに載せていなかった。
 店主のブログには、来客のコメントが寄せられている。他サービスのSNSに投稿されたメッセージも引用されていた。評価は概ね良である。店主は三十代後半とのことであるから相当のやり手だ。
 学はメニューの感想を眺める。クリスマス用にデコレーションされた写真は、とても美しかった。そろそろ正月の準備を始める由が軽妙な文章で綴られている。
 業者専門の食材店のホームページを学は開いた。さまざまな写真の中で金柑のオレンジが目を惹く。それを肴に小一時間ほどレシピを練ってみた。
「なんだか今日は、ご機嫌ですね?」
 キーボードを視線で追い、点滴を替えにきた看護師へ答える。画面に学の返事が表示された。
『そうかな』
 褥瘡が生じないよう学の体の向きを変え、看護師は窓のブラインドを下ろす。
「ええ。何となくですけど。……少し開けておきますか?」
『はい。お願いします』
 学は、眼球を動かした。それが彼にできる唯一の運動である。看護師は微笑んでブラインドの具合を調整した。
 窓の外には、夕刻の空が広がっている。この空の下に学の考えた料理に舌鼓を打っている誰かがいるのだろうか。彼は、もう自分で調理をすることもなく、それを味わうこともなかった。

 明るく輝く金星は、金柑と似ている。陳腐な思いつきに学は、可笑しくなった。看護師の言う通りである。たしかに学は上機嫌だった。だからこそ、こんなことを考える。
 彼女が本当に夜空の星を好んでくれていたらと。今、この時、空を仰いでいるかもしれないとも。
 その可能性はゼロとは言えない。彼女の目に映る星も瞬いているのだろうか。(了)

元ネタ

twnovelを元に書きました。

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